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カテゴリ: 漢籍逍遥遊

馮道(882-954)漢文出典⇒旧五代史【旧五代史・馮道伝七十】後周広順年間の初め、再び太師を拝し、中書令を拝し、太祖は甚だ馮道を重んじ、常に馮道が上奏を行う際にも名前で呼ぶことはしなかった。太祖が崩御するに及んで、柴栄が世宗となって馮道を山陵使に任じた。【旧五代 ...

馮道(882-954)漢文出典⇒旧五代史【旧五代史・馮道伝六十六】太祖が国内の争乱を平らげるに及び、議して徐州節度使の劉贇を後漢の後継ぎに立てんとし、馮道と秘書監の趙上交、枢密直学士王度らを劉贇を迎い入れるために派遣した。馮道と劉贇は徐州から汴州に入り、途中宋州に ...

馮道(882-954)漢文出典⇒旧五代史【旧五代史・馮道伝五十六】乾祐年間、馮道は臨時官である奉朝請に就いて(中央政界からは)外れ、自宅で悠々自適の生活を送った。その後ある日、自身の人生を顧みて「長楽老自叙」を著した。【旧五代史・馮道伝五十七】「(長楽老自叙前略) ...

馮道(882-954)漢文出典⇒旧五代史【旧五代史・馮道伝五十一】また、契丹は先ず馮道と李崧、和凝及び文武の官吏などを留め置いて常山に籠っており、時にこの年は閏7月27日であり、契丹は李崧を追跡する詔を発し、朝士10人を選抜させて木葉山に向かわせて捜索を行った。【旧五 ...

馮道(882-954)漢文出典⇒旧五代史【旧五代史・馮道伝四十六】この歳の三月、(馮道は)契丹に随って北方にいき、晋室の公卿らとともに常山にいたった。俄かにして一行のリーダーが死去したために、永康王が代理となってその一行を統率した。北に去るに及んで、嘉裏という部族 ...

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